二人の天使が私の前に現れたときのことを書こう。
新しい道を歩こうとしている時に、ちょっとした偶然のできごとが自分を導いたり、背中を後押ししてくれることがある。はて天使のというのは本当にいるのかもという気になるのはそんなときだ。
ある時、私は子供にピアノを教えるための教本について調べていた。それまでは大人を中心に教えてきたが、自分の枠を広げてみようと準備していたのだ。
その少女は向かいの歩道を自転車を押しながら悪戦苦闘していた。片手で後ろの荷台を持って後輪を宙に持ち上げながら、残りの手でハンドルを持ってなんとか運ぼうとしている。だが腕は疲れ、息は切れ、数メートル進んでは下ろし、また進みを繰り返している。私はちょっとした仕事があり、これから坂を登って、街の中心部の小高い山の上にある音楽堂に向かうところで、ちょうど私も少女のいる側の歩道に渡るところだった。道路を渡ると、少女の後ろ姿が眼前に近づいてくる、私は自分がそのまま通り過ぎるのだろうかどうするのだろうかという考えが浮かんでいた。ちょうどその瞬間、少女は持ち上げていた後輪をふたたび地面に下ろし、深く息をついた。気づくと私は声をかけていた。
「おぅ、どうした? 後輪ロックかかっちゃった?」
少女はふと顔を上げて、私をちらっと見る、警戒する様子もなく、おもむろに語り出した。
「あの、塾にきのう自転車おいてきて、取りに行ったら、カギ忘れちゃったの。」
たぶん、きのう塾に自転車で行ったが、帰りは何かの事情で置いて歩きで帰ってきて、今日取りに行ったものの、後輪のロックをはずすキーを家に置き忘れてきてしまった、ということなのだろう。昨日は雨が降ったからそのせいかもしれない。私はそう勝手に解釈した。
聞くと少女の家はここから五分ぐらいのところにあるが、私の向かう方向とは違っていた。
「方向が同じなら、ちょっと手伝ってあげようかなと思ったんだけど、オジサンここを左に曲がらなきゃいけないんだよ。」
私がそう言うと、少女は何か言ったようだった、声は小さくて聞き取れなかった。目を伏せるとふたたび自転車を移動させ始めた。
「じゃあ、がんばってね、ごめんね。」
私の声は少女には届かず、風に飛ばされていった。
ところが私は道を間違っていた。曲がるべきは、この角ではなく、もう少し先を左だった。私はまた少女に追いついて言った。
「曲がるのあそこじゃなかった。オジサン、後ろ持つから、前のハンドル持って、一緒に行けるとこまで行こう。」
少女は軽くうなずいてその通りにした。しばらく進むと、今度こそ私が曲がる角まで来た。
「オジサン、ここ曲がるんだ。」
「わたしも。」
「なんだ一緒かぁ。そうなんだ。もしかしてこの先の橋も渡る?」
「うん。坂登っていく。」
「なんだ一緒一緒、よかった、じゃあけっこうおうちの近くまで行けるかも。」
「カギうちに忘れちゃって。」
「早く自転車、取りに行かなきゃと思って焦っちゃったかな・・・?」
「うん。」
しばらく黙々と二人で自転車を運んで行った。
「山の上にね、音楽堂みたいのがあってね・・・」
「知ってる」
「あ、知ってんだ。オジサン、ピアノを弾くんだけど、そこにちょっと教えに行くんだ。」
「すごいですね・・・私も、ピアノ習ってる。」
「ええええ、ほんとに?!」
少し大げさに驚いてみせたものの、思い返せば、実はなんとなくそんな気がしていたのだった。だからわざわざそんな話題を出したのかもしれなかった。漠然とした予測が当たったからといって、そうとわかったときの驚きと喜びが減ってしまうわけではなく、むしろ何かに対する確かさの感覚が加わってそれらは増幅される気がした。
「そうなんだぁ。今、何年生?」
「三年生」
「何の曲やってるの?」
「えーっと、今は〈おおスザンナ〉」
このとき私に、―あなたが今、脳裡で再現しているメロディーは、〈おおスザンナ〉ではなく、〈おおブレネリ〉です―と指摘してくれる人は誰もいなかったので、たった今、その勘違いに気づいた。〈おおスザンナ〉は“I am come from Alabama with my banjo on my knee.”という歌詞から始まるフォスター作曲のアメリカの曲だ。〈おおブレネリ〉はスイス民謡ではないか。しかもその歌詞を先の方まで歌ってみた時、やはり無意識というのは恐ろしいと思った。―おおブレネリ、あなたのお家はどこ?―というのだから。
「あ、家、もうすぐそこです。」
「あっそう。じゃあオジサンはこっちだからここで・・・」
「はい」
「気をつけてね。」
「はい、ありがとうございました。」
きっとそのあと家について、このことを話したお母さんから、知らないオジサンには気をけるように言われているに違いない。
二人目の天使は、私が誰もいない公園でお弁当を食べていた時に現れた。その公園にはなぜかベンチがなく、私はブランコに座って食べていた。しばらくすると少年が自転車に乗ってやってきた。ブランコに乗りに来たらしい。少年は私をちらちらと見つつも、隣のブランコに乗ろうとした。そちらのブランコの下には昨日降った雨のせいで、水たまりが出来ていた。私は言った。「そっち水たまりあるから、こっちのに乗れば?」「うん。」私はちょうど食べ終わったところだったので、立ち上がってブランコを譲った。
二人の天使の話はこれで終わり。
ちょうど子供のことを考えているときに、子供がやってくる。なんて素敵な贈り物だろう。もし神様のしわざだとしたら、神様とはきっと粋な人に違いない。